2007年07月22日

旧街道5 焙烙街道

焙烙街道

猿投山麓などで焼かれた焙烙を、名古屋で売り歩く人たちが通った道だといわれている。 また道の勾配が焙烙を伏せたような緩い坂と坂の上が平らだったからだともいわれる。

注 焙烙(ほうろく)とは 
今では殆ど見られなくなったが、平らな土鍋で豆や茶を炒るのに用いられた。 直径30センチ、深さ4センチくらいの素焼きの鍋。 調理道具としてだけでなく、お盆の迎え火・送り火を燃やす皿や割れ方で占う神事などにも使われたという。

自由が丘の西に北山墓地がある。 ここには昔、三明(さんみょう)という火葬場があった。 名古屋の火葬場は、江戸時代には吹上にあったが、そこが名古屋監獄になるために東部丘陵に新しい火葬場がつくられた。 これが三明火葬場。 大正時代の初めに八事に火葬場ができたが、市中から近いため上野の火葬場と呼ばれて利用された。 焙烙の道は、葬列の道へと変わっていった。 この火葬場は、戦後、自由が丘に大きな団地ができるまで続いた。
火葬場に向かう道の事を法六句(南無阿弥陀仏)道といったことから、「ほうろく街道」と呼ばれたのかもしれない。

この街道は始点も終点も定かではない。 東区の建中寺付近から東へ豊前、松軒の間を通り、千種公園北から名電工前へ出て、斜めに住宅街を横切り振甫プールの北を通って自由が丘から猪子石に出てさらに東に向かったらしい。

現在の天満通りの姫が池北の坂の頂上(歩道橋がある)の西を少し入ったところ、焙烙街道と四観音道との交差する場所に、写真の石標がある。
 東  やごと ひらばり
 南  あつた かさでら

この石標の手前に、明の内乱を避けて亡命した医師である張振甫が住んだ場所がある。 緑のトンネルの向こうに石仏が並んでいるのが見られる。 張家代々のお墓という。
このあたりも、マンションが林立し、旧街道の面影はほとんど残っていない。



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この記事へのコメント
旧街道ですか。
昔に思いを馳せながら歩くの好きです。
私が歩いたことがあるのは箱根の旧街道なんですが、結構起伏が激しくて足場が悪かったです。
昔の方は足が丈夫じゃないと移動が大変だったんでしょうね?
Posted by ちょこレピ at 2007年07月23日 17:29
町の中の旧街道の細い道は、ホソうされています。

ぢぢの小さい頃は、道は穴ぼこだらけの砂利道だった。
今のぢぢの足では、キット歩けなかっただろう。
Posted by ぢぢばば at 2007年07月23日 22:02
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Posted by JulianPen at 2017年01月21日 09:57
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