2007年12月29日
2007年12月27日
年末だというのに
今日は明徳公園へ。
メートク公園だからといって、メートークじゃない。
守山区だ。
明徳池には、おしつまっても多くの太公望が・・・
余程、家に居づらい事情があるのか?
ヒトの事は言えない。
こんな時に、ノンビリ散歩なんかしているのだから・・・
メートク公園だからといって、メートークじゃない。
守山区だ。
明徳池には、おしつまっても多くの太公望が・・・
余程、家に居づらい事情があるのか?
ヒトの事は言えない。
こんな時に、ノンビリ散歩なんかしているのだから・・・
2007年12月21日
2007年12月20日
2007年12月18日
お誘いを受けたので
政五郎さんの「おいでよ!」のお言葉にお応えして
ホント久し振りに出かけてみました。
牧野が池緑地
花は少ない。 この時期はどこの公園も似た様なもの。
黄葉もほとんどが落葉して、枯葉が北風に舞っている。
今日はチョット足を伸ばしてみた。
深い森では野鳥の鳴き声が響く。
鳴き声から鳥を特定するだけの知識を持ち合わせていない。
それでもユッタリしたひと時を過ごせた。 ありがとう
メモリーが3倍になったので、暫く心配なく写真をアップできるようになった。
2007年12月16日
2007年12月08日
2007年11月26日
2007年11月23日
秋の徳川園
12月2日まで夜間開園中。
開園3周年記念特別企画「秋燈夜話」~源氏物語
朗読と音楽のコラボレーション
11月24日、25日 17時30分から
観覧は無料(入場料は必要)
観覧券は両日とも当日17時から黒門口で配布。
先着100人
写真は昼間の撮影
開園3周年記念特別企画「秋燈夜話」~源氏物語
朗読と音楽のコラボレーション
11月24日、25日 17時30分から
観覧は無料(入場料は必要)
観覧券は両日とも当日17時から黒門口で配布。
先着100人
2007年11月19日
2007年11月15日
2007年11月08日
2007年11月06日
2007年10月21日
2007年10月13日
ズーラシア
暫く名古屋を離れて、横浜の娘のところへ行ってきた。
今年は、房総半島に連れて行ってくれるということだが、その前日に「よこはま動物園」へ。
この動物園なかなか凝った展示方法をしている。
旭川の旭山動物園に刺激をうけて工夫している様だ。
広大な敷地に亜熱帯の森、アジアの熱帯林、オセアニアの草原、中央アジアの高地、アマゾンの密林、アフリカの熱帯雨林、日本の山里など地域・気候帯別に生育環境を再現している。
中でも、ここの目玉はアフリカの希少動物の「オカピ」(写真左)だろう。
ショップもこのオカピのグッズでイッパイ。
その他の動物は東山動物園と大同小異。
又、気候帯ごとに豊かな樹木、四季折々の花々を配している。
まさに植物園が同居しているようだ。
2007年10月04日
モリコロパーク
午前中は、秋らしいいい天気だった。
愛・地球博の開催中には、一度も足を踏み入れたことのなかった「遊びと参加ゾーン」を訪れた。
わんパク宝島、地球市民村などのパビリオンが、児童総合センター、国際児童年記念館として残された。
高さ88メートルと東海一を誇る大観覧車も残されている。
次回は、愛・地球博記念館、園内バスに乗って日本庭園、サツキとメイの家、もりの学舎(まなびや)など行ってみたいものだ。
2007年10月01日
四季の森
初めてだったので、カーナビがなかったら、なかなか行けないところだった。
起伏に富んだ公園で、ぢぢにはチョットきつい公園だった。
バラ園のバラも花数少なく、水辺の音楽広場とくつろぎ広場にわずかに野草がある程度。
よく整備された芝生の広場では、ツクツクボウシの鳴き声が聞かれ、
空にはたくさんの赤トンボが乱れ飛んでいた。 スッカリ秋模様。
2007年09月20日
2007年09月18日
鞍ケ池公園
豊田市の東部にあり、鞍ヶ池を中心とした観光施設である。 一帯は、愛知高原国定公園に指定されている。 また、東海環状自動車道の鞍ケ池PA(ハイウエーオアシス)とも連結している。
起伏に富んだ地形を生かして施設が散在している。 水辺デッキ、芝生広場、子供プレイコーナー、植物園、動物園、観光牧場、若草山(山頂に「美しの塔」、展望台がある)
園内の移動には、パークトレイン(100円/回)が利用できる。
隣接施設として「トヨタ鞍ガ池記念館」があり、トヨタの創業期の歩みとモノづくりのスピリットを感じることができる。 展示室(写真右)のほか、移築された豊田喜一郎邸やアートサロンが併設されている。
2007年09月17日
古戦場公園
長久手の戦い
天正10年(1582)6月、織田信長が家臣明智光秀の手にかかり本能寺にたおれた。このため、遺児や家臣の中で後継者争いが起こったが、この中で最初に頭角を表したのが羽柴秀吉だった。 秀吉は山崎で光秀を討ち、賤ケ岳で柴田勝家を破って天下統一への階段を昇りつめていった。
こうした中、信長の次男信雄は、強大になる秀吉の勢力に対し、身の危険を感じるようになっていた。そこで信雄は信長の同盟者であった徳川家康に助けを求めた。家康はいつかは秀吉と対決せねばならないと考えていたので、これを承諾した。
天正12年(1584)3月、秀吉軍と家康・信雄連合軍は、ともに兵を挙げた。両軍は小牧でにらみ合ったが、先に動いたのは秀吉軍だった。家康の本拠地岡崎を攻めるために三好秀次を総大将とした別動隊を送ったが、その動きを察知した家康も行動を開始し、4月9日長久手で激しい戦闘が起こった。
この日の戦いは、家康軍の勝利に終わったが、後に秀吉は信雄と和睦し、信長の後継者としての地位を確立した。
合戦400年を記念して昭和60年に
オープンした郷土資料室が隣接して
いる。 南側には古戦場を縮景で再現
した公園が広がる。 このほか、いくつかの石碑がある程度。 まだまだ発展途上の公園で、今後の整備が待たれるところだ。 リニモの駅から近い。
天正10年(1582)6月、織田信長が家臣明智光秀の手にかかり本能寺にたおれた。このため、遺児や家臣の中で後継者争いが起こったが、この中で最初に頭角を表したのが羽柴秀吉だった。 秀吉は山崎で光秀を討ち、賤ケ岳で柴田勝家を破って天下統一への階段を昇りつめていった。
こうした中、信長の次男信雄は、強大になる秀吉の勢力に対し、身の危険を感じるようになっていた。そこで信雄は信長の同盟者であった徳川家康に助けを求めた。家康はいつかは秀吉と対決せねばならないと考えていたので、これを承諾した。
天正12年(1584)3月、秀吉軍と家康・信雄連合軍は、ともに兵を挙げた。両軍は小牧でにらみ合ったが、先に動いたのは秀吉軍だった。家康の本拠地岡崎を攻めるために三好秀次を総大将とした別動隊を送ったが、その動きを察知した家康も行動を開始し、4月9日長久手で激しい戦闘が起こった。
この日の戦いは、家康軍の勝利に終わったが、後に秀吉は信雄と和睦し、信長の後継者としての地位を確立した。
合戦400年を記念して昭和60年に
オープンした郷土資料室が隣接して
いる。 南側には古戦場を縮景で再現
した公園が広がる。 このほか、いくつかの石碑がある程度。 まだまだ発展途上の公園で、今後の整備が待たれるところだ。 リニモの駅から近い。